笹子地蔵霊険記その9
小田原藩主が稲葉氏から大久保氏に変わってから天災が相次ぐ。
◎元禄地震
元禄16年(1703年)11月23日 マグニチュード7.9~8.2
◎宝永地震
宝永4年(1707年)10月4日 マグニチュード8.4
◎富士山宝永噴火
宝永4年(1707年)11月23日 噴火は16日間続く
巨大地震によって笹子地蔵周辺の参詣道や修験の行者道などに被害が出たため通行出来ない箇所が発生した可能性が高い。
噴火によって降り積もった火山灰や軽石は足柄上郡に壊滅的な被害を及ぼし、地元の人々は生活の糧も生活する場所も失うという大惨事に見舞われた。
この結果、笹子地蔵周辺は荒廃し人影も無くなったことで次第に雑木が密集し、天狗岩は蔦・スイカズラなどのつる性植物に覆われたのであった。
しかし、20年過ぎた享保12年(1727年)の頃になると足柄上郡は復興途上ではあったが、その他の地域は平常な生活に戻っていた。この頃に起きた不思議な話を享保15年(1730年)に建立された笹子地蔵由来碑に記されているので紹介したい。
笹子地蔵由来碑(後ろにあるのが天狗石)
相模国足柄上郡塚原村山中の地蔵石は、霊険殊勝にして古くから修験僧や庶民などの参拝者で賑わう霊地であった。
しかし、そのような参拝者も絶えて久しく、地蔵石はつる性植物で覆われ、付近は鹿や猪の住処になってしまった。
相模国中郡(現在の伊勢原市・平塚市・大磯町など)に住みし者が難病で苦しんでいた。
その者が不思議な夢を見た。一人の僧が現われ「難病を治癒するためには塚原村の地蔵石に立願せよ」との教示を受けたのであった。そこで、毎日教示された通りに立願していると元気が回復し顔色も良くなっていった。その後笹子山の笹子地蔵にお参りすると数日後完全に病気平癒となった。
このような笹子地蔵にかかわる霊験あらたかな話が多く伝わったので、近隣や遠方から笹子地蔵に参詣するものが後を絶たず、地蔵石にはお供物やお花が多く献じられていた。
由来碑建立の発起人は、旅宿にて「願いは12日に叶う」と告げられた夢を見たら実際に12日に願いは成就した。そこでこれは地蔵菩薩のご神徳と考え多くの方の賛同を得て、多くの方に霊験あらたかな笹子地蔵を知ってもらうために地蔵菩薩の彫刻ををした石碑を建立した。
以上が笹子地蔵由来碑に書かれている内容を要約したものである。
写真で明らかなように笹子地蔵由来碑は天狗石を拝めるように立っている。地蔵菩薩の尊像を石碑に彫刻したのは、天狗石を地蔵石として拝むためのものである。
地蔵堂の裏にある地蔵石との関係はどう考えるべきなのだろうか。
修験道の聖地として修験僧が参拝していた中世までは天狗様を神様としてきたので霊石は天狗石と呼ばれた。しかし、江戸時代中期になり庶民が健康・安全・救済などを祈願して参拝するようになるとお地蔵様のほうが親しみを感じるようになるので霊石は地蔵石と呼ばれるようになったと考えられる。
今日では笹子地蔵由来碑の後ろにある霊石をお地蔵様と呼んで拝んでも、天狗様と呼んで拝んでもかまわないと思われる。
地蔵堂にお参りしたら是非とも霊石に向かって拝んでいただけたら有り難いと思います。
続く
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