笹子地蔵霊験記その8
天狗石に矢穴が彫られているのは石垣として利用することが目的だったと断定できる。
石割間近の矢穴の状況から、余程のことがあったので工事はストップしたのだろう。
近くに石垣があることから、天狗石を供養するために石垣の上にお堂が建てられたと考えられる。
このような条件と合致する史実を検証した結果、次のような史実が判明した。
寛永9年(1632年)稲葉正勝が小田原藩主(85000石)として転封。
稲葉正勝は母が春日局で将軍徳川家光の信任厚く、幕府の支援を得て小田原城を総石垣の城とするために改修工事を始めた。
笹子山周辺には石垣に利用できる巨石が多く存在し、天狗石も選ばれたのであった。
殿様からの命令には誰も逆らえず、矢穴が彫られていった。
そこへ藩主稲葉正勝が吐血したという知らせが入り、工事中断の命令が出た。寛永10年(1633年)夏のことである。
翌年稲葉正勝は38歳の若さで死去。
次期藩主に天狗様の祟りが及ぶことを危惧した小田原藩は、天狗石を供養することにした。
小田原城の石垣工事を担当している石工を派遣し、石垣と天狗岩を供養するお堂を設置した。
小田原城の石垣と同様に反りが設けられているのが特徴。
これにより天狗の祟りは無くなり、藩主稲葉正則は健康にも子供にも恵まれ出世した。
貞享2年(1685年)稲葉氏は越後高田藩主(102000石)として転封した。
稲葉氏は天狗石を石垣用の石に加工しようとして天罰を受けたが、その後お堂を建て天狗様を祀ったので小田原藩主として順調に日々を送れた。
しかし貞享3年(1686年)小田原藩主となった大久保氏は天狗石に関わらないようにした。
天罰を受けることは無かったが、天狗様のご加護を受けることも無かった。
そのために小田原藩主としての大久保氏は財政難と天災に苦しむことになるのである。
宝永4年(1707年)富士山で起きた宝永大噴火で小田原藩領は火山灰で壊滅的被害を受けてしまったのである。
笹子山周辺もひどい状態で笹子地蔵周辺は荒れ果てていったのであった。
その後奇跡が起こるのだがそれは次回に。
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