2021年3月28日 (日)

笹子地蔵霊険記その11

笹子地蔵霊険記その3で三竹の御嶽神社・笹子地蔵・長泉院が一直線で結ぶレイラインがあることを紹介した。

レイラインの延長線上には神社仏閣が他にもあると言われている。

そこでこのレイラインはどこまで伸びているのか。日本地図に線を引いて探求した。

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その結果、レイラインが埼玉県秩父市の三峯神社にまで達していることが判明した。

三竹の御嶽神社と秩父の三峯神社はともに日本武尊にゆかりの深い神社なのである。

日本武尊が「ああ、妻よ」と峠で叫んだのが東国をアヅマと呼ぶこととなった起源とされる伝説。

古事記では足柄峠なのですが日本書紀では碓氷峠となっており、御嶽神社と三峯神社は修験道の神社として何か深い繋がりがあるように感じました。

三峯神社は狼を守護神として祀っています。足柄地区では道了尊が天狗を守護神として祀っており、両者には神仏習合の頃に修験道の寺院として共通の基盤があって今日に至ったと考えられます。それが笹子地蔵の成り立ちに大きな影響を及したと考えました。

ひとつの仮説として、笹子地蔵の悪犬伝説は鎌倉時代までは狼を神として祀っていたのを天狗を神として祀ることになった歴史的事実を伝説として今日に伝えたものではないでしょうか。

凶暴な狼だったら退治すればすむことで、当時に使われていた武器で十分可能なのである。

天狗が狼を石に変えたとされる鑵主石を今も大事に供養している理由は次のように考えられる。

鎌倉時代にそれまで地域を守護する神が狼から天狗に変り、それまで祀っていた狼を鑵主石として祀り、新しく守護神となった天狗を天狗石※として祀ることになった。だからこそ狼は気絶して石に変り鑵主石として今日まで地蔵堂で祀られてきたのである。これが悪犬退治伝説の真相と考えたい。

※天狗石 悪犬退治伝説では狼を気絶させ石に変えた天狗が休んでいた石を天狗石と呼ぶ。天狗はこの石から空に飛んで行った。

鎌倉時代前に狼を神として祀っていたので、今日まで地蔵堂で鑵主石を地蔵石としてお参りすることになった。鎌倉時代以後天狗様を地域の守護神として祀るようになったので天狗石付近にお堂などが建てられお参りされてたはずである。但し、元禄地震・宝永噴火などの天災でお堂などは消滅したと考えられる。石垣だけが当時を偲ばせる唯一の証拠である。

享保15年に建立された笹子地蔵由来碑で、笹子地蔵の霊験が示され近隣遠方から多くの参拝者がお参りに来るようになった話が記されており、そこに記されている地蔵石は上記天狗石なのである。江戸時代中期から大正時代まで天狗石を地蔵石として多くの参詣者があったことは石碑から推測できる。

関東大震災後に笹子地蔵は荒廃したが、近年永久グリーンヒル住宅地の一部有志によって周辺は下記写真のように整備された

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Blogの管理人も住宅地に住み、笹子地蔵の霊験を得たことで笹子地蔵のことを知りたいと思いBlogに霊験記を書いた次第です。見えない力の助けを得てここまで書くことができました。そして次のように結論を出しました。

笹子地蔵は鑵主石を地蔵石として祀る地蔵堂と天狗石を地蔵石として祀る笹子地蔵由来碑の二ヶ所をお参りする霊験あらたかな聖地である。

①神である狼の化身である鑵主石を地蔵石としてお参りし、②神である天狗の化身である天狗石を地蔵石としてお参りするのが笹子地蔵で御利益を受ける参拝方法としてお勧めしたい。

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①地蔵堂にお参りすることで、地蔵堂の奥にある鑵主石を地蔵石としてお参りしたことになる。

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②笹子地蔵由来碑をお参りすることで奥にある天狗石(矢穴が彫られた石)を地蔵石としてお参りしたことになる。

より多くの方々が笹子地蔵の御利益にあやかることを祈っております。

これでようやく笹子地蔵の謎解きは終了いたしました。

 

 

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2021年3月25日 (木)

笹子地蔵霊険記その10

明治政府による神仏分離令や修験禁止令により神仏習合は禁止され、金比羅大権現は長泉院の金比羅堂で、蔵王権現は御嶽神社の本堂で密かに祀られるようになった。

長泉院の本尊は釈迦牟尼仏、御嶽神社の祭神は日本武尊などの神々を祀っているので、政府の命令に違反せずに修験道の神を祀る為にした当時の人の知恵だったのであろう。

笹子地蔵においては修験道の行者はいなくなったが、地蔵石に近隣や遠方から多くの参拝者が来訪することがその後も続いた。

しかし関東大震災(1923年)から終戦(1945年)まで困難な時代が続くと参拝者は皆無となり笹子地蔵周辺は荒廃していった。

 

戦後日本経済が復興し高度成長期を迎えると、大手ゼネコンであるフジタ工業によって笹子地蔵周辺に大規模開発プロジェクトが計画された。

当時は東名高速道路の大井松田インターチェンジ近くに第一生命の高層ビルが建設されるなど、足柄平野の経済的発展が見込まれるようになった。そしてフジタ工業の子会社藤和不動産が販売する藤和グリーンヒル住宅地が完成した。

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上の地図は1984年の笹子地蔵周辺の地図である。

長泉院や金比羅堂が位置が分かるように表記されており、矢印の場所が笹子地蔵である。

笹子地蔵霊険記で今まで述べてきたが、この地域は古代より土着の神々を国津神として信仰し、仏教伝来後は神仏習合により金比羅大権現として祀ってきたのであった。金比羅大権現の分身黄色大権現が天狗の姿で現われたり、僧の姿で夢に現われ人々に笹子地蔵へ参拝するように促すなど、霊験あらたかな神様なのである。

しかし、地図をみれば一目瞭然、藤和不動産が住宅地を設計した時に神様への配慮は皆無だったのである。

せめて長泉院本面に歩いてお参りに行けるように遊歩道を作るとか、かってテニスコートのあった場所を展望公園とし長泉院を見晴らせる場所に祠を設置してお参り出来るようにすべきだったのでは・・・・・。

確かに地蔵堂は「南足柄市石造物調査報告書」にて高さ4.5m幅2.4mの2段の自然石を地蔵石として認定していることにより、藤和不動産が自信を持って建立したはずである。

しかし、江戸時代中期から大正時代まで地蔵石として信仰された霊石や多くの石碑が建つ場所は放置された。

藤和不動産は不動産バブルの時期に完売することができたが、その後の不動産不況によって経営が悪化し三菱地所に吸収された。これもこの地域を鎮守する神々の神徳を受けることが出来なかったことによるものであろう。

 

この住宅地の居住者から笹子地蔵に尽くそうという方々が増えてきて、笹子地蔵周辺は次第に整備されきました。

このようなことから神徳を授かるようになり、令和元年東日本台風では南足柄市の多くの地域が断水となったが、藤和グリーンヒル住宅地だけが断水を免れた。

これからも多くの方々が笹子地蔵に参拝しての神徳を受けられることを願わざるを得ません。

もしも笹子地蔵に参拝する時は笹子地蔵由来碑にお参りすることも忘れないでください。

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          笹子地蔵由来碑

 

続く

 

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2021年3月21日 (日)

笹子地蔵霊険記その9

小田原藩主が稲葉氏から大久保氏に変わってから天災が相次ぐ。

◎元禄地震

元禄16年(1703年)11月23日 マグニチュード7.9~8.2

◎宝永地震

宝永4年(1707年)10月4日 マグニチュード8.4

◎富士山宝永噴火

宝永4年(1707年)11月23日 噴火は16日間続く

 

巨大地震によって笹子地蔵周辺の参詣道や修験の行者道などに被害が出たため通行出来ない箇所が発生した可能性が高い。

噴火によって降り積もった火山灰や軽石は足柄上郡に壊滅的な被害を及ぼし、地元の人々は生活の糧も生活する場所も失うという大惨事に見舞われた。

この結果、笹子地蔵周辺は荒廃し人影も無くなったことで次第に雑木が密集し、天狗岩は蔦・スイカズラなどのつる性植物に覆われたのであった。

しかし、20年過ぎた享保12年(1727年)の頃になると足柄上郡は復興途上ではあったが、その他の地域は平常な生活に戻っていた。この頃に起きた不思議な話を享保15年(1730年)に建立された笹子地蔵由来碑に記されているので紹介したい。

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     笹子地蔵由来碑(後ろにあるのが天狗石)

相模国足柄上郡塚原村山中の地蔵石は、霊険殊勝にして古くから修験僧や庶民などの参拝者で賑わう霊地であった。

しかし、そのような参拝者も絶えて久しく、地蔵石はつる性植物で覆われ、付近は鹿や猪の住処になってしまった。

 

相模国中郡(現在の伊勢原市・平塚市・大磯町など)に住みし者が難病で苦しんでいた。

その者が不思議な夢を見た。一人の僧が現われ「難病を治癒するためには塚原村の地蔵石に立願せよ」との教示を受けたのであった。そこで、毎日教示された通りに立願していると元気が回復し顔色も良くなっていった。その後笹子山の笹子地蔵にお参りすると数日後完全に病気平癒となった。

このような笹子地蔵にかかわる霊験あらたかな話が多く伝わったので、近隣や遠方から笹子地蔵に参詣するものが後を絶たず、地蔵石にはお供物やお花が多く献じられていた。

由来碑建立の発起人は、旅宿にて「願いは12日に叶う」と告げられた夢を見たら実際に12日に願いは成就した。そこでこれは地蔵菩薩のご神徳と考え多くの方の賛同を得て、多くの方に霊験あらたかな笹子地蔵を知ってもらうために地蔵菩薩の彫刻ををした石碑を建立した


以上が笹子地蔵由来碑に書かれている内容を要約したものである。

写真で明らかなように笹子地蔵由来碑は天狗石を拝めるように立っている。地蔵菩薩の尊像を石碑に彫刻したのは、天狗石を地蔵石として拝むためのものである。

地蔵堂の裏にある地蔵石との関係はどう考えるべきなのだろうか。

修験道の聖地として修験僧が参拝していた中世までは天狗様を神様としてきたので霊石は天狗石と呼ばれた。しかし、江戸時代中期になり庶民が健康・安全・救済などを祈願して参拝するようになるとお地蔵様のほうが親しみを感じるようになるので霊石は地蔵石と呼ばれるようになったと考えられる。

今日では笹子地蔵由来碑の後ろにある霊石をお地蔵様と呼んで拝んでも、天狗様と呼んで拝んでもかまわないと思われる。

地蔵堂にお参りしたら是非とも霊石に向かって拝んでいただけたら有り難いと思います。

続く

 

 

 

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2021年3月19日 (金)

笹子地蔵霊験記その8

天狗石に矢穴が彫られているのは石垣として利用することが目的だったと断定できる。

石割間近の矢穴の状況から、余程のことがあったので工事はストップしたのだろう。

近くに石垣があることから、天狗石を供養するために石垣の上にお堂が建てられたと考えられる。

このような条件と合致する史実を検証した結果、次のような史実が判明した。

 

寛永9年(1632年)稲葉正勝が小田原藩主(85000石)として転封。

稲葉正勝は母が春日局で将軍徳川家光の信任厚く、幕府の支援を得て小田原城を総石垣の城とするために改修工事を始めた。

笹子山周辺には石垣に利用できる巨石が多く存在し、天狗石も選ばれたのであった。

殿様からの命令には誰も逆らえず、矢穴が彫られていった。

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そこへ藩主稲葉正勝が吐血したという知らせが入り、工事中断の命令が出た。寛永10年(1633年)夏のことである。

翌年稲葉正勝は38歳の若さで死去。

次期藩主に天狗様の祟りが及ぶことを危惧した小田原藩は、天狗石を供養することにした。

小田原城の石垣工事を担当している石工を派遣し、石垣と天狗岩を供養するお堂を設置した。

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小田原城の石垣と同様に反りが設けられているのが特徴。

これにより天狗の祟りは無くなり、藩主稲葉正則は健康にも子供にも恵まれ出世した。

貞享2年(1685年)稲葉氏は越後高田藩主(102000石)として転封した。

稲葉氏は天狗石を石垣用の石に加工しようとして天罰を受けたが、その後お堂を建て天狗様を祀ったので小田原藩主として順調に日々を送れた。

しかし貞享3年(1686年)小田原藩主となった大久保氏は天狗石に関わらないようにした。

天罰を受けることは無かったが、天狗様のご加護を受けることも無かった。

そのために小田原藩主としての大久保氏は財政難と天災に苦しむことになるのである。

宝永4年(1707年)富士山で起きた宝永大噴火で小田原藩領は火山灰で壊滅的被害を受けてしまったのである。

笹子山周辺もひどい状態で笹子地蔵周辺は荒れ果てていったのであった。

その後奇跡が起こるのだがそれは次回に。

 

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2021年3月18日 (木)

笹子地蔵霊験記その7

笹子地蔵周辺ではかって天狗の姿をした金比羅大権現の分身である黄色大権現を地域の守護神としてしてお守りしてきた。

そこで、黄色大権現が空に飛んでいった天狗石はどれなのかが問題なのである。

そこで笹子地蔵の写真を見ていたら不思議な写真を見つけた。

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昨年9月27日に令和橋周辺を撮った写真であります。

白くて丸い霊体のようなものが笹子地蔵由来碑の後方に2カ所撮れているのである。

これは心霊写真では無く、周囲の杉林の間から入ってくる光によって起きたものであると考えている。

しかし、悪犬伝説に出てくる黄色大権現が座った場所と飛んでいく姿を暗示しているのではと感じたのであった。

実はこの写真を撮ってから、自宅周囲の緑地帯にあるアオキなどの雑木が茂っているのが気になって、景観を守るために伐採するようになった。

そして近くの石垣付近などアオキが密集している場所も雑木を伐採して歩けるようにしたのも見えない力の指示によるものかもしれない。

そして、その場所を探してみた。

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以前から矢穴が残っている巨大な石として注目していた石がそこにあった。

これが天狗石なのではないだろうか。

天狗石を何故石垣に加工しようとしたのだろうか。

そしてそれは何故途中で止まったのだろうか。

それが天狗石の解明に重要なのだろうと感じた。

続く。

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2021年3月15日 (月)

笹子地蔵霊験記その6

笹子地蔵の伝説では人々を苦しめる悪犬を石に変えた黄色大権現。

天狗様がこの地域の守護神であることを実感しました。

しかしよくよく考えると大雄山最乗寺が天狗の寺だったことに気づいたのです。

最乗寺は開創以来600年の歴史を持つ関東の霊場です。今までは曹洞宗の寺院としてお参りしてきました。

もちろん道了尊とか天狗のことは知っていても、単なる伝説としか思っていなかったのです。

しかし、明治の神仏分離令や修験禁止令をくぐり抜け、今も修験道に通じる天狗様を神として祀っていることに改めて感激しました。

最乗寺(道了尊)をお参りすることで、この地域の守護神である天狗様をお参りすることになるからです。

応永元年(1394年)開山了庵慧明禅師が最乗寺を建立された時に、修験僧道了が三井寺から空を飛んで馳せ参じ1人で500人分の力量で仕事をして大事業を完遂するのに貢献した。

応永18年(1411年)了庵慧明禅師が入滅すると、修験僧道了は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて天狗に姿を変え、山中へと隠れていった。

以後、最乗寺の守護神「道了大薩埵」として人々の厚い信仰の対象になって今日にいたっている。

 

道了尊紀行

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最乗寺の本堂です。御本尊は釈迦牟尼仏です。

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結界門です。大天狗と小天狗が門番をしています。ここから道了尊の神域に入ります。

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御真殿へ続く石段です。

御真殿のご本尊は道了大薩埵、天狗様を祀っています。

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御真殿の横には世界最大の下駄・十一面観音菩薩像・天狗の像が並んでいます。

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2021年3月14日 (日)

新しい命の物語

突然話は変わります。

このブログの主人公ムササビが今年も生みました。

最近夜の10時頃巣に戻ってくるので、もしかしたらと思っていました。

今日巣の中の赤ちゃんを確認しました。

二代目ムササビキンタローが今年も出産いたしました。

これから新しい命の物語が始まります。

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写真は赤ちゃんをなめている二代目ムササビキンタローです。

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2021年3月13日 (土)

笹子地蔵霊験記その5

御嶽神社から長泉院までのレイライン。

残りの笹子地蔵・長泉院についても神秘的な場所としての伝説が残っている。

長泉院は大森氏が1470年(文明2年)に清泉院を現在地に移して開創した曹洞宗の寺院である。

笹子地蔵の悪犬伝説は1262年(弘長2年)の出来事として「長泉院来由記」に記されている。

詳しくは「悪犬退治と笹子地蔵」を参考にしてください。

ここで書かれている山犬とは絶滅したニホンオオカミを指す。

ニホンオオカミは秩父の三峰神社などで神の使いとされているが、ここでは恐ろしい動物(悪犬)として登場する。

板屋窪周辺の山を荒らし回っていたので、古くからの土着の神である金比羅大権現の分身が黄色大権現として悪犬退治をする伝説である。

地蔵堂の裏に地蔵石があることから、その側に悪犬が石に変わった鑵主石があることになる。

黄色大権現は天狗の姿をしており、しばらく天狗石に座って休んだ後に飛び去っていったのですが、天狗石は湧き水の近くにある笹子地蔵の上にある巨大な石ではないかと思われます。

笹子地蔵については更に深く検証したいと思います。

 

つぎに今の長泉院がある場所の伝説を紹介します。

1342年頃大森彦七による大龍退治という伝説です。

龍は中国では皇帝を指すぐらい尊い想像上の動物で、日本では水を司る神獣なのであります。

しかし、ここでは火を噴く西洋のドラゴンに相当する怪物として登場する。

詳しくは「塚原の大森彦七」を参考にしてください。

大龍が現れた場所が長泉院の龍門橋付近で、龍と戦った刀を洗った川が大刀洗川と命名された。

その刀を地面に突き立て供養したのが大刀塚、その周辺を塚原と呼ぶようになったのが地名の始まりとなったとのことである。

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上の写真が竜門橋で神秘的雰囲気である。

狼伝説やドラゴン伝説と南足柄市には神秘的な場所が多いのに驚く。

続く

 

 

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笹子地蔵霊験記その4

御嶽神社から長泉院に続くレイラインの延長線上には更に神社や寺があるらしい。

しかしここでは御嶽神社から長泉院に限定して述べたいと思う。

御嶽神社は南足柄市三竹412に位置し、三竹地区とその周辺を鎮護している神社であります。

御嶽神社のご祭神は日本武尊・稲倉魂命・大山咋命・大山祇命、本殿には木造のご神体が18体安置されています。

その中に蔵王権現像が2体含まれていることから、修験道と結びついていた証拠と考えられます。

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御嶽神社に着くと鳥居とその奥にある巨大な杉に迎えられる。

本殿に続く石段は急で苔に覆われている。

石段を登るのは危険なので、別にある坂道を参拝者は利用していると思われる。

この石段は神様専用の階段なのではと不思議な感覚になる。

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御嶽神社にはご神水と呼ばれる湧き水が存在する。

日本武尊が村人にお世話になったお礼に水を湧かした伝説が残っている。

足柄神社の伝説とも一致し、この神社が日本武尊を御祭神とする由縁なのであります。

明治になって神仏分離令と修験禁止令が出されるまで、蔵王権現として修験道の聖地だったことを地域の人たちがご神体で守ってきたことに敬意を表したい。

続く

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2021年3月 3日 (水)

笹子地蔵霊験記その3

古事記から南足柄が由緒ある地域であることを知ってもらえたと思う。

更に地図から金比羅大権現がかって存在したことで、古代から南足柄が神聖な場所だったことが判明した。

それこそがレイラインの存在なのである。

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上の地図を見ていただければ、長泉院→笹子地蔵→御嶽神社を結ぶ一直線が存在していることに気づかれるだろう。

これこそがレイラインなのだ。

レイラインとは古代遺跡・神社・仏閣など神聖な場所を地図上で線を引くと直線になり、そのラインがレイラインと呼ばれている。

江戸時代まではこの地域は修験道の聖地で、笹子地蔵付近でも多くの行者が往来していたらしい。

南足柄を代表する仏閣である大雄山最乗寺が天狗伝説とパワースポットを強調していることからも、南足柄にレイラインがあって当然なのかもしれない。

上の国土地理院の地図には長泉院と金比羅堂が大きな文字で書かれている。

長泉院はそれなりの規模の寺院なので当然なのだが、金比羅堂の場所には寺院も神社も遺跡としても何も無い。

しかも古い明治の地図でも同様に書かれているのである。他の場所ではこのような例は皆無である。

江戸時代までは金比羅大権現をご祭神とする金比羅堂が存在したことは確かだが、何故かレイラインは長泉院につながっているのである。

 

明治政府の神仏分離令で長泉院は神様は除かれ寺だけになってしまったが、それまでは金比羅堂を有し金比羅大権現を祀っていたということが地図から読み解くことが出来る。

つづく

 

 

 

 

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