2021年7月27日 (火)

笹子地蔵霊験記その17

日本武尊をご祭神とする足柄神社を過ぎたレイラインは東名高速道路吾妻山トンネルを通過する。

東京から東名高速道路を走ると最初のトンネルが大和トンネルで、2番目が吾妻山トンネルなのだ。

どちらも日本武尊にゆかりのあるのではと思いたくなるような命名だ。

 

東名高速道路下り線の吾妻山トンネルー山北バス停間は交通事故多発地点として有名なのである。

神奈川県警でも警鐘している。

地元では高速道路の工事で墓地を移転させたのが原因と噂されてきた。

このような噂の出た原因は、何か見えないものに対する恐れからきたものであろう。

 

日本武尊に関わる伝承や神話が受け継がれた聖地をつなぐレイラインと交差していることが原因の一つと考えられる。

神聖な場所ではその場所の神様を祀っていればご加護を受けられるが、そうでないと守ってもらえない。

吾妻山という名前から日本武尊と何らかのつながりがあるはずだが、吾妻山トンネル付近には日本武尊を祀る施設は存在しない。

そのため運転している方が自己防衛をするしかないのである。

 

東名高速道路で運転している方は、都夫良野トンネルを過ぎたら日本武尊に対して心で祈り、安全運転を念じることが大事だと思う。

多くの方がそのようにして安全運転を心がけ、無事に帰宅したら日本武尊に感謝の気持ちを念じるだけで事故多発は防げると期待している。

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2021年7月23日 (金)

笹子地蔵霊験記その16

最乗寺仁王門を過ぎ次に足柄神社に到着する。

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地図を見ると足柄神社の特徴が分かる。

足柄峠から足柄平野に続く県道78号線とレイラインが交差する場所に足柄神社入口の看板がある。

そこから周囲の畑などを見ながら通って奥に入ると到着する。足柄峠との因縁の深さを感じる。

 

神奈川県神社庁足柄神社後由緒には次のように書かれている。


日本武尊東征の際、足柄村にしばらく滞在され休養された後、明神嶽から足柄山に向かおうとしました。

しかし、途中樹木草生い茂り道に迷ってしまいました。そこへ白い鹿が現れ、その後をついていくと難なく足柄峠に到着することが出来ました。そして白い鹿はいつの間にかいなくなってしまいました。

日本武尊は「これは神霊のお導きにならむ」と思い、侍僕に命じて足柄の地に3年滞在させ、この地に神霊を奉斎したのが足柄明神の始まりとなった。当初は明神嶽に鎮座したが、その後足柄峠・矢倉嶽Ⅱ遷座し鎌倉時代後期に現在地に遷座した。

ご祭神は天照大御神・瓊瓊杵尊・日本武尊である。

レイラインでは「3」の数字が目立つのですが、ここでも3年という表現が出てきます。

古事記では白い鹿が現れると殺してしまうのですが、足柄神社では足柄峠まで無事道案内をすることになっています。

日本書紀では場所が岐阜県と長野県の境である信濃坂に移り、道案内をしたのは白い狼となっています。

伝承がそのままた正しいとは言えないかもしれませんが、足柄神社とレイライン・足柄峠との結びつきを考えると、白い鹿が現れた場所は古事記の通り足柄の地だったと確信しています。

足柄神社の東にアサヒビール神奈川工場がありますが、アサヒビールの本社は墨田区吾妻橋にあり、足柄神社とのご縁でここに立地したと思われます。

 

 

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2021年7月18日 (日)

笹子地蔵霊険記その15

笹子地蔵と長泉院金比羅堂・御嶽神社を結ぶ一直線が、北は秩父三峯神社・群馬県妙義神社に達することが判明し、ますます日本武尊と深い繋がりがあることを確信いたしました。

そこでもう一度笹子地蔵のある南足柄市に戻ってレイラインを検証することにしました。

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上記地図で確認すると、長泉院を通り過ぎたレイラインは最乗寺仁王門に達します。

最乗寺は曹洞宗寺院ですが、天狗様を道了薩埵として寺を守護する神として祀る珍しい寺院です。

最乗寺の仁王門はレイライン上に配置されており、昔の人はレイラインの存在を知っていた可能性が高いのです。

 

レイラインは神聖な場所や寺社を結んで神聖なパワーが流れていると考えられますが、当該レイラインは三宅島と箱根山、更に浅間山などに囲まれ吾嬬郡を結ぶことで大地のパワーも流れております。

仁王門近くにある富士フイルムは1934年1月資本金300万円で設立され2月に足柄工場が操業した。

以来写真感光材料のトップ企業として発展してきた。

とりわけ1943年~1970年2代目社長春木栄氏は、狩川沿いに桜並木を寄付するなど地元愛の強い方であった。

上記地図でレイライン上にある足柄神社を創業以来生産増進の守護神として祀り、会社および社員が初詣などで最乗寺にお参りするなど、富士フイルムと南足柄市は密接な関係が長く続いた。富士フイルムと最乗寺、足柄神社は地図上レイライン上に

三角形で結ばれており、レイラインのパワーを吸収したことが発展の要因の一つだった可能性が高い。

しかしデジタルカメラの普及により

  • 2004年写真フィルム事業からの撤退。
  • 2006年に開成町に先進研究所設立。
  • 2006年に持ち株会社制に移行した際に、本店登記も南足柄市から東京都港区へ移転した。

富士フイルムが次第に南足柄市と疎遠な関係になっていくのは寂しいかぎりだが、南足柄市は箱根金太郎ラインの開通など明るい材料もあり、観光などで発展してもらえたらと願っている。

 

 

 

 

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2021年7月17日 (土)

笹子地蔵霊険記その14

三宅島から真鶴三ツ石海岸・南足柄市内三ヶ所(御嶽神社・笹子地蔵・長泉院金比羅堂)・秩父三峯神社を経て佐渡島まで至るレイライン。

改めて地図を作成し新しい事実を発見しようとした。

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地図を見ると神奈川県内では丹沢湖で大山・富士山と一直線でクロスする。神聖なるゴールデンクロスなのである。

そして群馬県内では妙義山・妙義神社がレイライン上に存在することが判明した。

妙義山は上毛三山の一つとして群馬県民に親しまれている山である。

更に大分県耶馬溪・小豆島寒霞渓とともに日本三大奇勝の一つでもある。

妙義神社は日本武尊を祭神としており、江戸時代は修験道の聖地として妙義大権現と呼ばれていた。

三峯神社も修験道の聖地として三峯大権現と呼ばれ、ともに徳川将軍家の厚い信仰を受けたなど共通点が多い。

妙義神社を群馬県側のレイラインの入口として考えると、その奥には何があるのだろう。

 

群馬県には活火山が4つある。浅間山・草津白根山・榛名山・赤城山だ。

レイラインはあくまで「3」にこだわっている。赤城山は仲間はずれとなってしまう。

浅間山・草津白根山・榛名山3つの活火山に囲まれた地域が吾妻郡と呼ばれており、日本書紀に出てくる碓日坂は吾妻郡周辺とされ、各地にヤマトタケル伝説が残っている。

三宅島から真鶴三ツ石海岸・南足柄市内三ヶ所(御嶽神社・笹子地蔵・長泉院金比羅堂)を経て三峯神社と一直線で繋がっていたレイラインは、日本三大奇勝の一つ妙義山に達し、その奥には群馬県の3つの活火山(浅間山・草津白根山・榛名山)に囲まれた吾嬬郡という広範囲な場所に、大地のパワーとヤマトタケル伝説に基づく信仰が及んでいたのである。

 

それにしても「3」という数字が目立つのである。

そこでもう一度古事記・日本書紀を読み直してみる。

(古事記)

足柄の険しい坂を上り、その頂に立って、海に沈んだ弟橘姫のことを思い起こし、三度深い嘆息を洩した。

「あずまはや」ああ、我が妻は!と嘆いた。

それゆえ、この国をアズマと言うのである。

(日本書紀)

甲斐から北方に転じ、武蔵と上野を通って、西の方碓日坂に至った。

日本武尊は常日頃、海に沈んだ弟橘姫を思い起こす気持ちが止むことは無かった。

碓日の山に登って、はるばると東南の方角を望み、三度深い嘆息を洩して、

「吾嬬はや」ああ、我が妻は!と嘆いた。

このゆえに、山の東の国々を名づけて、吾嬬の国という。

 

つまり、日本武尊が亡き妻を思い三度深い嘆息を洩したことが、レイライン上の日本武尊・音橘姫と深い繋がりのある場所を、その証拠として「3」という数字で関連づけていたのだ。ただ驚くばかりである。

 

次回は笹子地蔵周辺のレイラインを検証したい。

 

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2021年7月15日 (木)

笹子地蔵霊険記その13

笹子地蔵の隠された謎解明で重要な要素として役だったレイラインについて述べたい。

実はeien network様のBlog「語感・方位・古代ー随想」でのレイライン研究を紹介したい。

自分は南足柄市の聖地長泉院(金比羅堂)・笹子地蔵・御嶽神社が一直線で結ばれることから、レイラインに興味を持つようになりました。

自分なりに努力して秩父の三峯神社と一直線で結ばれることを知り、足柄地方と秩父地方が神代の時代から深い繋がりで結ばれていると考えるようになったのです。

しかし、上記Blogでは南足柄市の3ヶ所を結ぶレイラインは、南に真鶴の三ツ石海岸・三宅島へと伸びていき、北には三峯神社を経て佐渡島の西三川ゴールドパークにまで伸びる遠大なものとして紹介しています。

他にも多くのレイラインの研究をなされていて、実際に三宅島から佐渡島まで実地調査までされているのには恐れ入りました。

ここで大変気になることは、南足柄の3ヶ所の聖地・三宅島・三峯神社など「3」という数字が目立つのです。

 

ムササビ金太郎のブログ管理者は、人生そのものが「3」という数字に縛られているのです。

生まれた年月日・今までの住所・親族の死んだ年月日・電話番号・マイナンバーまで3で割り切れるのです。

家紋は三輪違い。鎌倉時代は三つ星だったそうです。

今年は令和3年なので人生の大きな転機がやってくるような感じです。

とりわけ忘れられないのは、2013年6月6日に起きた母親の転落事故です。

高い所から落ち首を石にぶつけた為、救急車もドクターヘリを要請しかけたほどです。

本人が県立足柄上病院を希望したので、上病院に入院となりました。

本来なら致命傷であったはずですが、多くの方々の助けで2ヶ月後無事退院できました。

お医者様から母親に「奇跡なんだよ。命は大切にしなさい」と言われていました。

その時から、崇敬している神社仏閣には更に熱心にお参りするようにしましたが、近年笹子地蔵様のご加護があったのではと思うようになったのです。事故当時、家には誰もいなかったので、動けるはずのない母親を家の中まで運び、ほとんど使わなかった携帯電話で助けを求めることができるのは天狗様しか考えられないのです。天狗様の背後には神様仏様のご加護があったからこそなのですが。

このようなことがあったので笹子地蔵霊験記として笹子地蔵を研究するようになったのです。

私事はここまでにして、次回はレイラインを深く研究したいと思います。

 

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2021年7月 8日 (木)

笹子地黄霊験記その12

笹子地蔵霊験記の表題を開設するのに3ヶ月以上の月日が経ってしまった。

長泉院に伝わる「悪犬退治と笹子地蔵」の伝説には深い意味がると考え苦悩してきたからです。

そして古事記や日本書紀を分析することで自分なりの結論に達することができました。

 

日本武尊一行が信濃坂で道に迷い白い狼の案内で美濃国へ抜け出せたという日本書紀の一節。

実は信濃坂でなく足柄坂で起きたことで、白い狼の案内で足柄峠を越えて甲斐国へと向かうことが出来た。

苦境を脱した日本武尊は、走水の海で身を投げた弟橘姫を思い出し「ああ!妻よ」と3回叫んだ。古事記ではこの部分だけが記された。

 

本来なら上記のような内容だったのが、古事記では白い狼が道案内をしたことを省かれ、日本書紀は場所を足柄坂以外とされてしまった。

この結果レイラインで結ばれた秩父の三峯神社などでは白い狼が眷属として篤く信仰されてきたが、足柄地域では眷属としての白い狼は信仰の対象として残ることは無かった。その結果白い狼からご加護をうけることは無く、逆に祟りではないかという事さえ起きるようになった。

 

鎌倉時代に板屋窪の長者は、地域の守護神として金比羅堂を祀り白い狼の祟りから救われることを祈願いたしました。

天狗様は白い狼の神霊を鑵主石に封じ、自らは天狗石に鎮座し人々の安寧を見守ることを約束いたしました。

鑵主石にはお堂が建てられ地蔵堂として今日にいたっております。

天狗石にもかってお堂が建てられていましたが、今は石垣でしかお堂があったことを知ることはできません。

いずれにしても古代から霊験あらたかな笹子地蔵を地域の守護神として思っていただければ幸いです。

 

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2021年3月28日 (日)

笹子地蔵霊険記その11

笹子地蔵霊険記その3で三竹の御嶽神社・笹子地蔵・長泉院が一直線で結ぶレイラインがあることを紹介した。

レイラインの延長線上には神社仏閣が他にもあると言われている。

そこでこのレイラインはどこまで伸びているのか。日本地図に線を引いて探求した。

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その結果、レイラインが埼玉県秩父市の三峯神社にまで達していることが判明した。

三竹の御嶽神社と秩父の三峯神社はともに日本武尊にゆかりの深い神社なのである。

日本武尊が「ああ、妻よ」と峠で叫んだのが東国をアヅマと呼ぶこととなった起源とされる伝説。

古事記では足柄峠なのですが日本書紀では碓氷峠となっており、御嶽神社と三峯神社は修験道の神社として何か深い繋がりがあるように感じました。

三峯神社は狼を守護神として祀っています。足柄地区では道了尊が天狗を守護神として祀っており、両者には神仏習合の頃に修験道の寺院として共通の基盤があって今日に至ったと考えられます。それが笹子地蔵の成り立ちに大きな影響を及したと考えました。

ひとつの仮説として、笹子地蔵の悪犬伝説は鎌倉時代までは狼を神として祀っていたのを天狗を神として祀ることになった歴史的事実を伝説として今日に伝えたものではないでしょうか。

凶暴な狼だったら退治すればすむことで、当時に使われていた武器で十分可能なのである。

天狗が狼を石に変えたとされる鑵主石を今も大事に供養している理由は次のように考えられる。

鎌倉時代にそれまで地域を守護する神が狼から天狗に変り、それまで祀っていた狼を鑵主石として祀り、新しく守護神となった天狗を天狗石※として祀ることになった。だからこそ狼は気絶して石に変り鑵主石として今日まで地蔵堂で祀られてきたのである。これが悪犬退治伝説の真相と考えたい。

※天狗石 悪犬退治伝説では狼を気絶させ石に変えた天狗が休んでいた石を天狗石と呼ぶ。天狗はこの石から空に飛んで行った。

鎌倉時代前に狼を神として祀っていたので、今日まで地蔵堂で鑵主石を地蔵石としてお参りすることになった。鎌倉時代以後天狗様を地域の守護神として祀るようになったので天狗石付近にお堂などが建てられお参りされてたはずである。但し、元禄地震・宝永噴火などの天災でお堂などは消滅したと考えられる。石垣だけが当時を偲ばせる唯一の証拠である。

享保15年に建立された笹子地蔵由来碑で、笹子地蔵の霊験が示され近隣遠方から多くの参拝者がお参りに来るようになった話が記されており、そこに記されている地蔵石は上記天狗石なのである。江戸時代中期から大正時代まで天狗石を地蔵石として多くの参詣者があったことは石碑から推測できる。

関東大震災後に笹子地蔵は荒廃したが、近年永久グリーンヒル住宅地の一部有志によって周辺は下記写真のように整備された

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Blogの管理人も住宅地に住み、笹子地蔵の霊験を得たことで笹子地蔵のことを知りたいと思いBlogに霊験記を書いた次第です。見えない力の助けを得てここまで書くことができました。そして次のように結論を出しました。

笹子地蔵は鑵主石を地蔵石として祀る地蔵堂と天狗石を地蔵石として祀る笹子地蔵由来碑の二ヶ所をお参りする霊験あらたかな聖地である。

①神である狼の化身である鑵主石を地蔵石としてお参りし、②神である天狗の化身である天狗石を地蔵石としてお参りするのが笹子地蔵で御利益を受ける参拝方法としてお勧めしたい。

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①地蔵堂にお参りすることで、地蔵堂の奥にある鑵主石を地蔵石としてお参りしたことになる。

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②笹子地蔵由来碑をお参りすることで奥にある天狗石(矢穴が彫られた石)を地蔵石としてお参りしたことになる。

より多くの方々が笹子地蔵の御利益にあやかることを祈っております。

これでようやく笹子地蔵の謎解きは終了いたしました。

 

 

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2021年3月25日 (木)

笹子地蔵霊険記その10

明治政府による神仏分離令や修験禁止令により神仏習合は禁止され、金比羅大権現は長泉院の金比羅堂で、蔵王権現は御嶽神社の本堂で密かに祀られるようになった。

長泉院の本尊は釈迦牟尼仏、御嶽神社の祭神は日本武尊などの神々を祀っているので、政府の命令に違反せずに修験道の神を祀る為にした当時の人の知恵だったのであろう。

笹子地蔵においては修験道の行者はいなくなったが、地蔵石に近隣や遠方から多くの参拝者が来訪することがその後も続いた。

しかし関東大震災(1923年)から終戦(1945年)まで困難な時代が続くと参拝者は皆無となり笹子地蔵周辺は荒廃していった。

 

戦後日本経済が復興し高度成長期を迎えると、大手ゼネコンであるフジタ工業によって笹子地蔵周辺に大規模開発プロジェクトが計画された。

当時は東名高速道路の大井松田インターチェンジ近くに第一生命の高層ビルが建設されるなど、足柄平野の経済的発展が見込まれるようになった。そしてフジタ工業の子会社藤和不動産が販売する藤和グリーンヒル住宅地が完成した。

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上の地図は1984年の笹子地蔵周辺の地図である。

長泉院や金比羅堂が位置が分かるように表記されており、矢印の場所が笹子地蔵である。

笹子地蔵霊険記で今まで述べてきたが、この地域は古代より土着の神々を国津神として信仰し、仏教伝来後は神仏習合により金比羅大権現として祀ってきたのであった。金比羅大権現の分身黄色大権現が天狗の姿で現われたり、僧の姿で夢に現われ人々に笹子地蔵へ参拝するように促すなど、霊験あらたかな神様なのである。

しかし、地図をみれば一目瞭然、藤和不動産が住宅地を設計した時に神様への配慮は皆無だったのである。

せめて長泉院本面に歩いてお参りに行けるように遊歩道を作るとか、かってテニスコートのあった場所を展望公園とし長泉院を見晴らせる場所に祠を設置してお参り出来るようにすべきだったのでは・・・・・。

確かに地蔵堂は「南足柄市石造物調査報告書」にて高さ4.5m幅2.4mの2段の自然石を地蔵石として認定していることにより、藤和不動産が自信を持って建立したはずである。

しかし、江戸時代中期から大正時代まで地蔵石として信仰された霊石や多くの石碑が建つ場所は放置された。

藤和不動産は不動産バブルの時期に完売することができたが、その後の不動産不況によって経営が悪化し三菱地所に吸収された。これもこの地域を鎮守する神々の神徳を受けることが出来なかったことによるものであろう。

 

この住宅地の居住者から笹子地蔵に尽くそうという方々が増えてきて、笹子地蔵周辺は次第に整備されきました。

このようなことから神徳を授かるようになり、令和元年東日本台風では南足柄市の多くの地域が断水となったが、藤和グリーンヒル住宅地だけが断水を免れた。

これからも多くの方々が笹子地蔵に参拝しての神徳を受けられることを願わざるを得ません。

もしも笹子地蔵に参拝する時は笹子地蔵由来碑にお参りすることも忘れないでください。

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          笹子地蔵由来碑

 

続く

 

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2021年3月21日 (日)

笹子地蔵霊険記その9

小田原藩主が稲葉氏から大久保氏に変わってから天災が相次ぐ。

◎元禄地震

元禄16年(1703年)11月23日 マグニチュード7.9~8.2

◎宝永地震

宝永4年(1707年)10月4日 マグニチュード8.4

◎富士山宝永噴火

宝永4年(1707年)11月23日 噴火は16日間続く

 

巨大地震によって笹子地蔵周辺の参詣道や修験の行者道などに被害が出たため通行出来ない箇所が発生した可能性が高い。

噴火によって降り積もった火山灰や軽石は足柄上郡に壊滅的な被害を及ぼし、地元の人々は生活の糧も生活する場所も失うという大惨事に見舞われた。

この結果、笹子地蔵周辺は荒廃し人影も無くなったことで次第に雑木が密集し、天狗岩は蔦・スイカズラなどのつる性植物に覆われたのであった。

しかし、20年過ぎた享保12年(1727年)の頃になると足柄上郡は復興途上ではあったが、その他の地域は平常な生活に戻っていた。この頃に起きた不思議な話を享保15年(1730年)に建立された笹子地蔵由来碑に記されているので紹介したい。

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     笹子地蔵由来碑(後ろにあるのが天狗石)

相模国足柄上郡塚原村山中の地蔵石は、霊険殊勝にして古くから修験僧や庶民などの参拝者で賑わう霊地であった。

しかし、そのような参拝者も絶えて久しく、地蔵石はつる性植物で覆われ、付近は鹿や猪の住処になってしまった。

 

相模国中郡(現在の伊勢原市・平塚市・大磯町など)に住みし者が難病で苦しんでいた。

その者が不思議な夢を見た。一人の僧が現われ「難病を治癒するためには塚原村の地蔵石に立願せよ」との教示を受けたのであった。そこで、毎日教示された通りに立願していると元気が回復し顔色も良くなっていった。その後笹子山の笹子地蔵にお参りすると数日後完全に病気平癒となった。

このような笹子地蔵にかかわる霊験あらたかな話が多く伝わったので、近隣や遠方から笹子地蔵に参詣するものが後を絶たず、地蔵石にはお供物やお花が多く献じられていた。

由来碑建立の発起人は、旅宿にて「願いは12日に叶う」と告げられた夢を見たら実際に12日に願いは成就した。そこでこれは地蔵菩薩のご神徳と考え多くの方の賛同を得て、多くの方に霊験あらたかな笹子地蔵を知ってもらうために地蔵菩薩の彫刻ををした石碑を建立した


以上が笹子地蔵由来碑に書かれている内容を要約したものである。

写真で明らかなように笹子地蔵由来碑は天狗石を拝めるように立っている。地蔵菩薩の尊像を石碑に彫刻したのは、天狗石を地蔵石として拝むためのものである。

地蔵堂の裏にある地蔵石との関係はどう考えるべきなのだろうか。

修験道の聖地として修験僧が参拝していた中世までは天狗様を神様としてきたので霊石は天狗石と呼ばれた。しかし、江戸時代中期になり庶民が健康・安全・救済などを祈願して参拝するようになるとお地蔵様のほうが親しみを感じるようになるので霊石は地蔵石と呼ばれるようになったと考えられる。

今日では笹子地蔵由来碑の後ろにある霊石をお地蔵様と呼んで拝んでも、天狗様と呼んで拝んでもかまわないと思われる。

地蔵堂にお参りしたら是非とも霊石に向かって拝んでいただけたら有り難いと思います。

続く

 

 

 

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2021年3月19日 (金)

笹子地蔵霊験記その8

天狗石に矢穴が彫られているのは石垣として利用することが目的だったと断定できる。

石割間近の矢穴の状況から、余程のことがあったので工事はストップしたのだろう。

近くに石垣があることから、天狗石を供養するために石垣の上にお堂が建てられたと考えられる。

このような条件と合致する史実を検証した結果、次のような史実が判明した。

 

寛永9年(1632年)稲葉正勝が小田原藩主(85000石)として転封。

稲葉正勝は母が春日局で将軍徳川家光の信任厚く、幕府の支援を得て小田原城を総石垣の城とするために改修工事を始めた。

笹子山周辺には石垣に利用できる巨石が多く存在し、天狗石も選ばれたのであった。

殿様からの命令には誰も逆らえず、矢穴が彫られていった。

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そこへ藩主稲葉正勝が吐血したという知らせが入り、工事中断の命令が出た。寛永10年(1633年)夏のことである。

翌年稲葉正勝は38歳の若さで死去。

次期藩主に天狗様の祟りが及ぶことを危惧した小田原藩は、天狗石を供養することにした。

小田原城の石垣工事を担当している石工を派遣し、石垣と天狗岩を供養するお堂を設置した。

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小田原城の石垣と同様に反りが設けられているのが特徴。

これにより天狗の祟りは無くなり、藩主稲葉正則は健康にも子供にも恵まれ出世した。

貞享2年(1685年)稲葉氏は越後高田藩主(102000石)として転封した。

稲葉氏は天狗石を石垣用の石に加工しようとして天罰を受けたが、その後お堂を建て天狗様を祀ったので小田原藩主として順調に日々を送れた。

しかし貞享3年(1686年)小田原藩主となった大久保氏は天狗石に関わらないようにした。

天罰を受けることは無かったが、天狗様のご加護を受けることも無かった。

そのために小田原藩主としての大久保氏は財政難と天災に苦しむことになるのである。

宝永4年(1707年)富士山で起きた宝永大噴火で小田原藩領は火山灰で壊滅的被害を受けてしまったのである。

笹子山周辺もひどい状態で笹子地蔵周辺は荒れ果てていったのであった。

その後奇跡が起こるのだがそれは次回に。

 

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